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Page.Ⅱ   殺人鬼 ( 前編 )

   ~畏怖 咽び家side story~

————————君に何が出来る?

嫌いな手が、自分の首元に伸びて来た。

これは、名誉だよ?

・・・私のな。

目覚めは最悪だった。

嫌な汗が首を伝う。

嗚呼、胸糞悪い。身体が鉛のようだ。

この男の名は黒川。

何処にでもいるような普通の男———————————

強いて言えばちゃんと大学を卒業して、有名なあの大関東製薬会社に入った、

という所か。

凍てつく空気を、四秒で吸って、八秒で吐く。

集中するためのルーティーンの様なものだ。

ふと、視線をずらす。

 

「・・・5時、か。」

起床するには早すぎる時間。

黒川は、ぽきぽきと背骨をならしながら鉛の身体を持ち上げ、

身なりを整えた。

一日と一週間は変わらない、黒川にとっては。

人混みに揺られ十数分かけて出勤。

昼食はその都度適当に。無論一人で。

そして何日か泊まって没頭して、着替えがなくなったら帰る。

この単調な生活がいつまで続くのか

来る日も来る日も同じことの繰り返し。

友達は昔から少ない。・・・いや訂正しよう。

いない。

そんな自分からしたら代わり映えのしない日々。

映画の主人公には到底なれない、まるでエキストラの様な人生だ。

至って普通の人間。寧ろ、人一倍気が弱い。

ただ努力だけは人一倍してきたつもりだ。

他の人よりは多少自信がある。

黒川は毎日、熱心に研究を続けていた。

研究中だけは自分が生きている、という実感が湧く。

嗚呼、結果を出したい。

いつか、このツマラナイ時間から抜け出せると信じて。

そんなある日。

「研究熱心だね、黒川君は。」

誰かが黒川の研究室に入ってきた。

「お疲れ様です。吉川研究科長。」

「うむ。そろそろ結果が出せそうかね?」

「あともう少しで見えてきそうなところまでは来てるんですが・・・」

この人は吉川昭三。研究科長。

人当たりはいい方で、尊敬できる人だ。

度々研究室を覗きに来る。自分も忙しいだろうに。

「まぁ焦ることはない、しっかり頑張ってくれ。

君には期待してるんだ。では失礼する。

「ありがとうございます。頑張ります。」

ああいう人が、才能があって周りにたくさん仲間がいて、

真面目に努力して勝ち取ってきた映画の主人公なのだろう。

黒川は妬みなどなかった。寧ろ更にやる気が湧いた。

この日は時間を忘れて没頭した。

​「できた・・・!!」

ついに研究は終わりを告げた。

嬉しさのあまり、らしくもないつい大きな声を上げてしまった。

入社して早十年近く。ようやく報われた気がした。

「発表、臨床試験、承認、製造販売まであと少しだ。

今はもう少しデータを取りたいところだけど、まずは、研究科長に報告しよう・・・!」

黒川は速足で吉川のもとへと向かった。

「これはすごい。大発見じゃないか。」

「ありがとうございます。」

吉川はまるで自分が発見したかのように手を取り、一緒に喜んでくれた。

黒川は長年の研究で、中等症から重症の嚢胞性線維症に対し、

開発した国内未承認の新薬 ムセロプシン が有効性であると発見し、

吉川に報告した。

嚢胞性線維症とは、特定の分泌腺が異常な分泌物を産生し、

それによって組織や器官、特に肺や消化官が損傷を受ける遺伝性疾患の事だ。

黒川は、この内容が学会で認められたら、その ムセロプシン の第一人者となる。

昆虫の体内にある成分(タンパク質)の一種に長年着目し続け、

ようやく新薬を開発したのである。

「で、どうするんだ?」

「今週中にまとめて米国皮膚科学会で発表しようと思うんです。

ただ、有効性などをもう少し慎重に調べて、

動物に投与してみるなど、非臨床試験を行う予定です。」

「そうか・・・なるほどな、これで大関東製薬会社ももっと有名になるな。

我が研究室のメンバーとして誇りに思うよ。」

「ありがとうございます。偏に親身になって気遣って下さった

研究科長のおかげです。発表に向けて頑張ります。」

黒川は研究科長に頭を下げ、部屋を後にした。

——————これが魔の恐怖への引き金になるとも知らずに。

数日経ったとある朝。

いつも通り、研究室へと足を運ぶと他の研究員たちの姿が見当たらない。

自分にとってはあまり関係ない事だが、少し気になり探してみることにした。

すると、声は吉川研究科長の部屋から聞こえた。

「どうしたんですか?」

群がる研究員の一人の話しかけると、

耳を疑う返事が返ってきた。

「お前、知らないのか?

吉川研究科長が、米国皮膚科学会で大関東製薬会社を代表して発表したんだ。

嚢胞性線維症の新薬、ムセロプシンを 私が 開発したって。」

—————————まさか?

あの吉川研究科長が?

 

「ありえない・・・それは僕が開発したものだ。」

「馬鹿言えよ、もう学会で発表して、新薬アワード受賞って話だぜ?

今日はその祝賀会だ・・・っておい!」

黒川は話を最後まで聞かず、人混みを無造作に掻き分け押しのけ、

その先にいる吉川のもとへ向かっていた。

「吉川研究科長!!!」

そこには満面の笑みの吉川がいた。

「やぁ、黒川君。」

「やぁ、じゃないでしょう?!何で僕の研究・・・」

その言葉はすぐにかき消された。

「黒川君、話なら後にしてくれないか?

今は祝賀会、お祝いの席なんだ。無粋な真似はよしてくれ。

呆れてものも言えなかった。

自分の研究を誰よりも見守って応援して、

希望とまで言ってくれた思いやりのある人が、

いとも簡単にあっさりと、最初から私が開発したような口ぶりで公言している。

黒川は黙ってこの場を立ち去った。

何なら何かの間違いだと、思いたかった。

自室に戻る足が、身体が、酷く鉛のように重く感じた。

まただ・・・

また自分はあの単調でツマラナイ日々に逆戻りするのか・・・。

やっと抜け出せた、この研究だけが自分の光さす道しるべだったのに。

一切の涙が出てこない。

代わりに色々な気持ちが留まる事を知らずに、こみあげてくる。

黒川は​空気を、四秒で吸って、八秒で吐いた。

戸をノックをする。静かに優しく。

「来ると思っていたよ、黒川君。」

そっと足音も立てずに静かに黒川は吉川の部屋に入った。

「何故、君の研究を横取りしたのか、だろ?」

吉川は黒川の顔を見向きもしなかった。

目線はずっと書類を書く手の方にあった。

黒川は少しずつそちらへ歩いた。

「簡単だよ、君を心から尊敬していたからだ。

だから名誉ある私がこの会社を代表して発表し、受賞もしたんだ。

私が発表した方が、君みたいな若手より信憑性があるからな。」

この言葉を聞いてふと、黒川は足を止めて一言こういった。

「それが、相手のツマラナイ日常から抜け出せる

唯一の希望だったとしても——————?」

吉川はペンを置き、顔を上げて言い放った。

「希望?はっ、知ったものか!

私は会社が有益に動く事しか考えていない。それの何が悪いんだ?

逆にお前が発表したとて、誰も見向きもしない。絶対にだ!

下の人間が粗相をすると、私の立場も危ぶまれる。そうなっては困るからな。

早めの害虫駆除だ。分かったらとっとと帰れ、嫌なら辞めてもらってもいい。

「そうやって、他の人の研究の成果を全て横取りして・・・」

刹那、黒川の視界が揺れた。

一瞬にして自分は天井を向いていた。いや、向かされたのだ。

「ごちゃごちしつこいぞこの小童!

このまま首を絞めてやろうか。死体なんぞ私は簡単に隠蔽できるからな。

人一人消すことは造作もない。」

笑う吉川に対し、黒川は必死にもがいた。

吉川の力が思った以上に強く、自分では歯が立たなかった。

信じていた、

いや、信じてしまった自分が愚かだった——————

もう誰も信じない。

今そう悟った。

絞める手に一層力が入る。

「―――君に何が出来る?

何もできないだろう。今でさえ私の手を振りほどけずにいる。」

そうさ。人一倍気は弱いし、力もない。

「これは、栄誉だ。」

栄誉なわけあるか・・・これは・・・僕の研究だ。

黒川は底から込み上げてくる黒い何かを必死に塞き止めた。

「—————私の、な。」

黒川は一瞬のスキを突き、力の限り蹴り飛ばした。

「お前なんか・・・生きてる価値ねぇよ。」

死ね。

口から零れ出た言葉は

自分が発した言葉とは思えないものだった。

そこからの僕の記憶は曖昧だが、

これだけははっきりと覚えている。

僕は吉川昭三を殺した。​

心臓を一突き。

ポケットに忍ばせておいたナイフで。

さくっと。

今でもあの感触は忘れられない。

豆腐を刺すかのような柔らかい感覚だった。

その後、楽しくて何回か刺したっけ。

「意外と躊躇なくいけたな。」

僕・・・

俺は床に転がる大きな木偶の坊を蹴り転がした。

「こいつは俺の研究を自分がさも作ったかのように発表し、

盗み取った悪い奴だ。死んで当然だ。」

急に笑いが何故か込み上げてきた。

笑いを堪える事が出来ず、ありのまま今の自分を出した。

こいつが死んで嬉しかったのか、

すっきりしたのか、怖かったのか、

または自分が今後罪人として生きていくことに

不安を感じて、一周回って笑い出したのかは覚えていない。

なんせ、この時は恐怖と不安と怒りで感情が抑えきれず、

アドレナリンがドバドバ溢れ出ていた。

と時計に目を見やる。

「ここが見つかるのも時間の問題だな。」

黒川は手に持っていたナイフをしまい、

ぼーっと天井を眺めた。

 

肩を軽く回し、首を左右にならす。

目を閉じ、

そして——————

空気を、四秒で吸って、八秒で吐いた。

 

 

-Continue to the second part-

【Lock】… o
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